予定地

いずれなにか書きます

少子化

できれば一人で生きていきたかったが、なんか結婚して子どもができて、しばらくして離婚して子どもと二人で生きていくことになった。

実家とも距離を置きたくて東京に引っ越したけど、結局、新快速で一本の場所に家を買った。兄も相変わらず独身だけども、実家と同じ市内に住んでて、週末ごとに母のご機嫌伺いに行ってる。

実家の母は、疎遠にしてた母の叔母を引き取って一緒に暮らし、近所のジジババを集めた喫茶店兼定食屋みたいのを半ば道楽でやってる。叔母に子どもはいないが親戚の夫婦を養子という形にしてあり、叔母の嫁ぎ先の財産はそちらに遺産として引き継がれることになっているらしい。

大学生になった子どもは、ごくたまにその店を手伝ったり、そのへんの老人の機嫌を取ったりしてお小遣いをもらっていた。たぶん来年就職する。

別れた父親ともたまに会っている。彼はずっと一人で暮らしていて兄弟はいない。彼が彼の家から受け継いできたもの、年取った時にどう始末つけるのかというと、うちの子どもがどうにかすることになるんだろうと思う。

私の恋人は、父とは離別して母が亡くなり、やはり兄弟もいない。離島に実家はあるけど誰も住んでおらず、地方都市でひとり暮らしている。もし死んでしまったら彼のお葬式は誰がやるんだろうって思ったけど、親戚とは付き合いがあるからどうにかなるらしい。縁起でもないけど、そうなったとき私は呼んでもらえるんだろうか。というか、長い独身オタク生活で堆積されたディスクとジャンクとグッズの山はどうやって処理するんだ。

子どもの恋人も一人っ子。母親が離婚して再婚相手と暮らしているので父親は二人いるらしい。もし結婚したら親族の顔合わせとかどうすんだろ。

まあ、そんな中で、子どもはどうにか育って大人になり、年寄りもみんなで集まって持ってるものを持ち寄って暮らしていく。これからの私達は、そういうリソースをかき集めて、どうにかやっていくしかないのだろう。

一人の子どもの肩に、たくさんの人の思いが乗っかっている。少子化ってこういう感じなんだな。しっかりした大木のようではなく、蔦のようなファミリーツリー。それはそれでしぶといものなのかもしれない。

夢 覚書

郊外の学研都市のような場所で何かのイベントがあり、仲間と参加している。おそらく何かの即売会みたいな会。

すごく大きなドームの建物やタワーの建物があって、石畳とレンガでできたヨーロッパのような町並み。立地イメージとしては野比みたいな感じなんだと思うけど、家は関西という設定なので姫路の奥とかそういう感じ。

即売会の時間が終わって仲間と別れて帰ろうとする。

実は、昔好きだった人がタワーの中の研究所で働いているということを知っていて、偶然を装って会いたくなりタワーに潜入する。タワーは薄暗くて倉庫みたい。トイレに行きたくなって、多機能トイレを開けると、顔面蒼白のおじさんが倒れていた。

救急車を呼んだけど、イベント期間中は街の中に車両を乗り入れられないって言われて途方に暮れる。

倒れていたおじさんは気分悪そうに丸テーブルに座っていて、周りの人も困っているけれど、どこかそれは日常っぽい。為す術もなく座ってたら、昔、好きだった人が研究室から出てきた。

同じ会社の人と厄介な恋愛沙汰にでもなってないか心配してたら、案の定、なんかデレデレした感じの悪い白衣の女がしなだれかかっていて、すごく腹が立ったので、パチンコの玉を好きだった人の胸にぶつける。好きな人は「相変わらずですね」って笑うけれど、それ以上何か話すこともなく、すでに、夜になりかけてるので帰ろうとするが、もってきた資材はダンボール2個分もあり結構な量であったことにここで気づく。

イベントは続いていて、ドームの上ではイルミネーションが光り、小さい人形がパレードしている。少し雨が降っていて、帰り道がよくわからない。

「仕事は誰でもできるけどお母さんは替えが効かない」というテーゼよくわかんなくて、いや、どっちも替えは効かんやろと思う。(あと、もうちょっと歳を重ねると今度は「親と自分の家族と仕事とどれを取るか」みたいな話が出てくるけど、それも同様)

マリー・キュリーは娘を義父にあずけて研究してたけど、「こんなちっちゃい子を預けて研究なんて!」って認めなかったらその後のノーベル賞学者は生まれなかったし、逆に「研究が大事だから子どもは作らない」とか言ってたら、やはりその後のノーベル賞学者(イレーヌ・ジョリオ・キュリー)が生まれてない。

マリー・キュリーは偉人だから」って言う人もいるかも知れないけど、子ども産んだころはまだ偉人じゃなくて、優秀なアラサーリケジョ、ぐらい。それならば、現在「あなたおかあさんなんだから仕事より子どもでしょ!」って言われてるその人が、将来すごい偉大な事業を成し遂げ、社会の難問を解決し、たくさんの人を救う可能性だってなくはない。

仕事にも育児にも替えの効く部分と効かない部分があって、その勘所が大事なのだと思う。そして、外部からそこを思考停止させるのはよくない。

本当にお母さんでないといけない局面はさほど多くないし、本当に自分でないとできない仕事もさほど多くないのではないかしら。本当に自分でないとできないことって、自分の人生を生きることであって、そこには責任を持ちたい。

休肝日のこと

仕事が終わったら美味しいものが食べたいし、美味しいものを食べたら美味しいお酒が飲みたくなる。長年の酒飲み生活で、美味しいものを食べると、それに合うお酒はイメージできてしまう。上の句と下の句みたいに。

でも、毎日飲むとじんわりと体調が悪くなる感じはわかるし、先日、恋人氏の健康診断結果を見せてもらったらγGTPの数値が冗談みたいに高かったので、休肝日を作ることにした。

飲んでいい日は水曜日と金曜日で、あと、土日のどちらか。そういうペースだと、お酒を飲む日のほうが少なくなるという寸法。家飲みの日はskypeで話しながら飲む。SNS にいらんこと書かないので、社会的生命を保つにも良い気がする。

この間、(水曜日に体調悪くて)木曜日に飲んでたら軽く叱られたので、それなりにルールは運用されている。お酒のない日は、晩御飯もごく軽めにしたりしている。

「惚れた弱みでボロ雑巾みたいに扱われてもすがりついてしまう」みたいな行為は人生の浪費なので、自分を雑に扱う男性と付き合わないというのは大事なこと。

だけど、識者がそれをアドバイスする際、相手からもらうプレゼントの額とか、連れていってくれる店のランクとか、そういう尺度を出してくることが結構あって、たとえば牛丼屋や立ち食いそばに連れて行かれる女はダメ、みたいなやつですが、ああいう通念はあんまり女の子を幸せにしない気がする。

なぜならば、若い男の子は、たいていお金持ってないし、真面目な男性は、たいてい洒落た店など知らないわけであり、一方、若い女の子を適当に食ってやろうって悪い男性は、そういうとこにお金使うからなんですけど。

基準の持ち方として、なんというか、恋人自身「以上」に扱われていれば心配する必要ないんじゃないかなーと思ってる。

以上というのは、自身と同等というのも含むので、相手がいつも牛丼屋に行ってるなら牛丼屋に連れて行ってもらうのは「以上」の範疇だし、もしそこで奢ってくれたら、いつもはしない出費をしてるのだから、自分より上に扱ってくれてると考えて差し支えなさそう。

一方、すっごくお金持ちの男性と不倫してたりして、ちょっと良いものもらったり良い店に連れて行かれたとしても、あくまで相手としてはお小遣いの範囲で遊んでるだけであり、自身の家族や仕事よりは下であることが多いはず。10万円ぐらいの指輪もらって喜んでも、奥さんには100万以上のものを渡してたりするんじゃない?マンション買ってもらったとしても、おそらく家族の別荘よりは安いはず。

それって、すっごく貧乏な男性と付き合ってて、日頃は彼が自分では行かないファミレスに連れて行ってもらうより、むしろ雑に扱われているのではないかしらん?

相手がいつも行ってるような店に連れて行かれること、本来悪いことではないと思う。一緒にいるということが日常となるのは関係性のゴールでもあるし。で、さらに、相手が一人で生きていたらやらないであろう気遣いや背のびをしてくれてることに敏感になると、わりと幸せを実感できたりもするので、この尺度の持ち方は結構いいと思った。

もし、そのレベルが不満なら、そこに我慢する必要ないし、逆に自分が相手におごるとかでレベルを上げていけばよさそう。寿司も指輪も自分で買う、というのは、一人で生きていくということでもないし、お互いに好きな相手のことを自分と同等かそれ以上に扱うというのは、結果的に二人でレベルアップしていくことになって、それが幸せなのではないかなあ。

通販化粧品買ってると、月に1度ぐらい冊子が送られてくるんだけど、今回、癒やしというか幸福感をもたらす脳内物質を作りましょう、みたいな記事で「好きなドラマを見ると脳は癒やしモードに」と書きつつ「ネットでのコミュニケーションでは癒やされません」とかまことしやかに書いてあった。
正直、ドラマなんかの絵空事より、気の合う友達とか恋人とネットでやりとりするほうが普通に癒されるのではと思った。
まあ、好きなことやって気分良く生きるのが一番なんだけど、なんでそうインターネットを悪者にするかなー。液晶画面の向こう側の人格もよく知らない芸能人の笑顔で癒されるなら、同じく液晶画面の向こう側にいる大切な人の言葉で癒されるほうが現実的だと思うんだけど。(なんならビデオチャットもできるんだよ。この記事を監修した先生1948年生まれとのことなので知らないかもだけど)

冬至なので朝に恒例の年筮をたてました。

今年は「風沢中孚 初九 (風水渙に之く)」でした。
去年が「沢火革の二、三爻変、兌為沢に之く」で、いろいろ変化もあり、また楽しい一年でもあったとは思います。

年明け当初を振り返ると、家買って引っ越すとは思わなかったし、10年ぶりぐらいに再会した古い知人と遠距離恋愛が始まるとも思わなかったけど、この卦をもらってから「今までと違ったことをやろう、変化につながることをやろう」という気持ちは通奏低音みたいにあったので、それが喜びにつながったのかも。

今年は、相思相愛の卦、まごころの卦。特に初九は六四と陰陽応じてるけど、肝心の六四は六五のケアで忙しく、六三の妨害もあって初九はかまってもらえない、みたいな感じらしく、ゆえに「心変わりはダメ、自分の信じたものを大事にすれば吉」とされています。シンプル。