予定地

いずれなにか書きます

このブログ、手動制御だけど「ある程度ブクマ流入があったら自主凍結する」というのを試している。これ、一種の剪定のような感じ。

何年かそうやって運用して、道具としての使い心地はいい感じ(比較的好きなことを書ける)だけど、それを自動化してサービス作っても儲からなさそう。

今のスキームでは絶対に儲からないんだけど「オープンかつ限定されている発信手法」というものが、実は求められている気がして、ここ数年いろいろと模索している。mstdnが流行った時にちょっと試したのとかもその一貫。noteとか有料にすることで限定公開というのもあるけれども、あれって運営元儲かるのだろうか?(ある程度まともな値段で公開して売れるブロガーが大量にいるなら別だけど、単に公開範囲を限定する目的だけだったらそんな値段つけないわけだし)

まあ、体感的に、日記の適正規模って、更新したらランダムな100人ぐらいがざっと目を通すぐらいが快適なんじゃないかと思う。100部だけ刷る同人誌。それくらいが「個人の日記」として読まれる限界点で、それ以上になると新聞の社説みたいな何らかの権威を帯びてしまう感じ。ガチに議論したい人が集まってきて、日記としての気軽さを超えてしまう。

社会を変えたいというより、思ったことや感じたことを一つの意見として書きたい。「そういう考えもあるなあ」って思うぐらいで、流してもらえれば気楽だし、なんなら、ファミレスの隣の席の会話ぐらいの重みでいい。

建前的には、ブログを書く人にとっては、読者は増えるほうが嬉しいし、バズると嬉しい、社会に対して影響力もちたい、強くなりたい、特別になりたい、そういうものだと言われてるけど、実際にテキストを書いて読まれる幸せって必ずしもそういうものでもないように思う。

今のインターネットサービスが、拡大こそを是とするような、アメリカ西海岸的な健全ポジティブな建前で作られてるのには少しの違和感があって、どうも、ウエットな気候、陰湿な性格でないと作れない何かもあるのではないかと思っている。日陰にしか咲かない花もある。京都に住んでいるからか、そういう意識ある。

なんだか、大きくするほうが偉いように言われると、小さい良さもあるだろうと思うし、グローバルなのが良いように言われると、自分のそばにあるものが大事だろと思う。

ローカルかつパーソナルかつスモール、あまのじゃくだから、そういうものが好き。巨木にも盆栽にもそれぞれの良さがある。

前のエントリーで書いた「取引」型だけじゃなくて、「いじり、コミュニケーション」型のセクハラもあるけど、これは「いじめ」と同じなので、もっと洗練された大人のコミュニケーションをよしとする規範が必要だと思う。当然、男女とも。

「オフィシャルな場で他人のセクシャリティとか容姿について言及するのは品がないことですよ」というの、堅めの業界はすでにそうなってるんじゃなかろうか?

そこまで親しくない人相手にそんな品のないコミュニケーションしなくても、いくらでも話すことあると思うんですよね。仕事の話、趣味の話、おいしかったもの、たのしかったこと。

セクハラを成立させてる大きな枠組みとして、女性が女性的な魅力アピールと「自分はあなたより劣ったものです」という振る舞いによって男性をもてなし、男性がそれに対して見返りを与える、という取引構造があると思う。

さらに「モテる男性は金離れがいい(=スマートに女性に見返りを与えることができるゆえに女性を獲得できている)」というドグマ自体、ひっくり返すと「女性に見返りを与えればセックスして良い」ということにつながりかねない危険な主張だと思う。

要は「女性におごらない男は童貞」と言い立てることが(直接的に嫌がる誰かに対してそういったのではないから)百歩譲ってセクハラには当たらないとしても、セクハラが蔓延する構造の一部を形成しているんじゃないかと。

現状、特に若い女性にとっては「女性的な魅力をアピールしながら「自分はあなたより劣ったものです」という振る舞いをすること」それ自体は社会的な振る舞いの規範となっていて、それができない人間は「女子力がない」「こじらせている」「スキがない」と批判の対象となったりする。ワーキングガール向けのメディアを見ても、そこで紹介される仕事術とキャバ嬢の接客術、なんだか近い。

だから、女性がもてなしたつもりはなくとも、男からは、もてなしに対して見返りを与えたつもりになり、女はそんな見返りを与えられたつもりはなくとも、見返りに見合う対価として、さらに性的な何かを求められることはあり得る。

そいいう背景を考えると、単純な攻撃欲求とか性的欲求によるハラスメントより、男側は「女もそれによってメリットを得ている」(ワイドショーで男性芸能人がまさにそういう発言してたらしい)要は「取引が成立している」と考えている事例のほうが多そう。

セクハラ被害を受けた女性に対して、同情的に振る舞うセクハラ男性に対して苛立つ人も多いと思う。しかし、彼らにしてみれば「便宜を望んだ女性に対して、それに見合う対価を求めただけ。取引は成立しているので自分は問題ない。取引のルールを破って刺された無粋なやつは責められるべき。あいつはやりすぎた。」そういう考え方なのではないか。

どうも、世間で提唱されている「女はかわいく振る舞って、甲斐性のある男からおごってもらえるのが勝ち組」という価値観の中でハラスメントを避けるのは、チキンレースみたいなものだと思う。

ハラサーのほうが悪いのは当然としながらも、男女ともに、そういう構造から出ていく意識変革が必要ではないかと思う。その構造を変えるつもりはなくて、男側にブレーキの性能を上げようって言うだけの主張にはあまり同意できない。そもそもブレーキを踏むべきポイントがどこなのか曖昧すぎるのだもの。

幸い、自分は性別問わず仲間として働ける環境に恵まれてきたけど、そこには「女の子だからおごってもらえる」って文化もなかった。極端な話、仕事の場では童貞と喪女になればいいだけの話なのに、なんで性的魅力を持ち込もうとするのかとも思うし、さらに、性的魅力が社会的能力の一部であるかのように、できる男はモテる、できる女は愛される、そういうの自体、もうやめにしませんかね。

苗字の話、家の話。

夫婦別姓についてまた議論になってるけど、私は、むしろ絶対に夫婦同姓でないといけないという理由が本当にわからなくて、なんか家族の絆とか伝統とか言うけど、それは多産時代の伝統であって、子どもが少なくなった現代では、現実のほうがすでに制度を超えてしまってるように思うわけです。
ここで私の家の話をするけど、私は子どものころ、父母と兄、祖父母と寝たきりの曾祖母が同居していた。で、父母と祖父母と曾祖母はそれぞれ苗字が違った。この経緯が結構複雑。
一般に「複雑な家庭環境」というと結婚離婚を繰り返して血縁よくわからなくなってる、みたいな感じだけど、あくまで関係性としては血縁であり普通の古き良き大家族らしい経緯で同居しているんだけど、戸籍上は別姓にせざるを得なかった。具体的にはこういう経緯。

  • 父は第二次世界大戦中にA家の長男として産まれたが、産褥期に母を亡くし、母の実家のB家に預けられ、祖父母と叔母が育てた
  • その後、A家に後妻が来て子どもが産まれたため、父はそのままB家で成人する。姓はAのまま。
  • 母はC家に育ち、父の元に嫁いだ際にAに改姓した。その後、兄が産まれる前後にB家で同居することになった。
  • 私が産まれる直前、父の祖父が交通事故で亡くなり、それと前後して祖母が老衰のため寝たきりになる。父はサラリーマンだったので、祖父の商売は母が継ぐことになり、育児、介護との両立は無理ということで、母の祖父母が同居することになった。
  • これにより、3世代同居ではあるものの、A,B,Cの3姓が混在することになった

男系で家系がつながっていくとは限らない昨今、結婚して姓を変えることにより血縁関係と姓が無関係になってよくわけがわからなくなるという弊害があるとも言える。
夫婦別姓にしたい理由、わりと個人主義的な主張がなされてることが多いから伝統勢力から反発されるのだろうけど、どっちかというと子どもが少なくて家の存続がやばい年寄りから要望が出てもいいんじゃないのかと思う。
ちなみに、私はあまり実家に愛着がなくて、結婚して姓を変えて離婚した時に姓を戻さなかったので、もはや縁がない家系の適当な苗字を名乗っているという面白い状況であり、たぶん次に結婚したらまた姓は変えると思う。

ところで、この話にはまだ続きがある。

曾祖母も祖父母も父も亡くなり、私と兄が家を出て独りになった母は、夫を亡くしたあと遠方で一人暮らしをしていた母方の叔母(私から見ると同居してた祖母の妹にあたる人)をひきとり、一緒に暮らすようになった。また表札に苗字が2つ並んでいる。

で、この人の姓が、私が付き合ってる相手の姓と偶然同じなのだ。もし結婚するようなことがあり私が姓を変えると本当にわけがわからないことになるし、そもそも、この祖母の妹の家は子どもがなくて一時期私を養女にするとかいう話も出てたので、まさに家とは…?という気持ちになる。

http://d.hatena.ne.jp/rikopie/20161229/1483027599
日記読み返したら「誰かと付き合うとしても相手の親のことを考えると申し訳ない」みたいなくだりが出てきたけど、いろいろあって付き合うことになった相手(同年代・奥さんはいない)にはすでに両親いなかったので、なんかそういうこともあるもんだなと思いました。
まあ「亡くなったお母さんに申し訳ない」という発想もあるかもだけど。

よく人を好きになる条件とか言うけど、私にとって、人を好きになるのは、その人の放つ光とか色とかそういうのに心を惹かれる瞬間があって、そこからその人に少しずつ入り込んでいくような体験なので、あんまり具体的な条件がない。薄暗い道を歩いてて、ぼんやり灯籠が見えて、路地の奥にある店を見つけるような感じ。

実際に飲み歩いてても、そういう感じで「気になる店だけど入れない」みたいなのはある(メニューとか出してないと特に)。でもある日、友達に紹介されて入れたり、そのお店が「日本酒フェア」とか張り紙だしてたらその日に行ってみたり、最近だとSNS経由で行くとっかかりを見つけたりする。そうやってお店に通えるようになる。好きな人にアプローチするのと似てる。

話を戻すと「その人が光のようなものを放っていて」といったとき「それは魂だね」って言われたようなことがある。そうなんだろうか。でも人間はそういうエネルギーを放っているし、それは特別な能力などなくとも感じられるものだと思う。条件とか理由とか何もない。放つ光に惹かれるかどうかだから意味はない。でもそんなに難しい条件でもないようには思う。何しろ惚れっぽいので。

ブログに人のことを書くとき、誰という対象をあえて書かずに書くというスタイルができつつある。記事の中でどういう表現で書こうと考えて思いつかなかったので、なんとなくそうなったんだけど、たとえば「私が誰かに何かをした」という文章を書く時、この「誰かに」はそっくり省けることに気がついた。日本語表現は面白いと思う。

古典の日記は対象をそのまま書いたりしなくて、文脈から浮き彫りにするような書き方をする。あれをお手本にしている。