予定地

いずれなにか書きます

私は、一般的な母親より子どもを他人にあずけている時間が圧倒的に長い親だったけど、そこにはあんまり負い目を持ってない。

というような話に対して「はじめてのハイハイもはじめてのあんよも全部他人が見ることになるのに」的なコメントを見た。

でも、すごく乱暴な言い方をするけど、私の場合(特に障害などの事情がなければ)成長にともなって自然に誰でもできるようなことができる瞬間に感動する感性が薄い。「はえば立て、立てば歩け」が親心であるなら、私は親心が乏しい。「いずれ歩くやろ」ぐらいの感覚しかない。

薄情かもしれないけれど、子どものころを思い返した時、はじめてたった瞬間や歩いた瞬間を鮮明に覚えてる人間なんているのだろうか。私は、自分のときにそこに立ち会ったのが親だったのか誰だったのかなんて、まったく覚えてないよ。まあ、最近の人は全部そういう”感動の瞬間”を動画で残してるのかもしれないけど、自分は大人になってからそんなの見せられるのは正直ぞっとしないと思うので、ほぼ記録を残してない。

でも、子どもの思考とか感情とかが自分と違うものとして発達していく過程はすごく面白かったし、日中一緒にいなくて夜になって顔を合わせて「お互いがんばったよな」という関係性が自分たちの場合は重要だったと思う。

子どもとの関係で一番感動したのは、子どもが5歳ぐらいのころ辛そうにしてたのか「ままどうしたの」って聞かれて、正直に自分の悩みを相談したら子どもなりに考えてアドバイスをしてくれたことで、今でも鮮明に覚えてるし、あれがあるから私は何があっても「うちの子は賢くてやさしくて最高」ってずっと思ってるし、そう言い続けてる。

周りの人がつらそうにしてる時に話を聞けて、自分の中で誠実に考えられること、それは勉強やスポーツよりはるかに大事なことだと今でも思う。

本当につらいときに味方になってくれる人が家族にいることは幸せなこと。だから、娘から私を見た時にもきちんと味方になれるようでいたい、親としてそこは責任を感じている。