予定地

いずれなにか書きます

例のバーチャルな宗教に戒律はあるけど教義がないじゃんってツッコミは面白いと思う。

教義なく戒律作るの、サービスのコンセプトないのに規約だけあるみたいな感じだけど、とりあえず投稿できる箱だけ作ってコンセプトとかないけどみんな自由にやってください、みたいな状況ってインターネットではわりとよくあるし、その中で浮かび上がっていく何か、みたいのがコンセプトだったりもするから。だからそれほどの違和感は感じなかったかも。

インターネットを自分の幸福に向かうためのメディアツールとして利用するための指針として、わりと一般的にあの戒律は有効だろうし、そんなところに自分の幸せはないと思うなら、自分にとってインターネットをどういう幸せに向かうツールとして使うのかを考えて自分の戒律を作ると良いのかも。

ところで、現代新宗教について考えると、だいたい基本的にはちゃんとした教義といったものはほぼない。カリスマが超能力ですごいこと言ってるか、そうでなければお布施をすればご利益がある、みたいな原始的なものかどっちかだと思う。そういうのに対して「胡散くさい」って共通認識が持たれているのは、マスマーケティングがうまくいかなくなってるというのと近い。

私「老後は精神修養団体を作りたい」ってよく言ってて、宗教ではないって強調してるのは、教祖を成立させることが難しい状況で教義を作るのは難しいし、人として何が幸せか、何を目指すべきかというのをこちらから提示するのではなく「それはお前らが精神修養して見つけろよ」って形にしたほうが、簡単にその団体を成立、存続させられるだろうと思っているから。

何が幸せか、どこに向かうべきかを自分で考えずに生きてると結構人間って容易に不幸になる。普通に、いろいろなメディアを通じて世界を見ると、そこに書かれている行き先表示板の先には不幸しか記載されていない、みたいな状況だから。何かの教義がないと、幸せは自分の身近で手に触れることでしか実感できない。(それは結局「ご利益」というものだ)もう少し先に光をあてて、ああいう幸せに向かって行きましょう、みたいなメディアは必要だろうし、結局それが今求められてる宗教めいたものなのだろうと思う。(ヘタなマーケティングのせいで宗教が忌避されてるゆえに、逆に妙なものに向かってしまう人が多い現状は結構面倒くさいと思う)

教義はなくとも「名前を隠して楽しく日記」とか「ハッキングから今晩のおかずまで」みたいな感じで、スローガンみたいのがあると良かったかもしれない。そう考えると、いまは、一流のコピーライターがいれば良い宗教ができるのかもしれないし「汝の欲するところをなせ」とか「愛は法、意志下の愛こそが」みたいなのを作れたクローリーさんはものすごくそういう才能あったと思う。