予定地

いずれなにか書きます

状況が不利であっても、ちょっとの勇気とか決意とか勢いとかで無理を通すことって意外にできるもんだなあと思う。だから「やれば意外にできるもんだよ」って書くことで、どこかの知らない誰かを勇気づけたい気持ちはとてもある。
でも、私の知らないインターネットの海沿いのどこかには、無理しても色々な事情でできない人や、無理をした結果とんでもない事態になった人や、無理をした人のせいでとばっちりを受けた人がいるだろうと思う。さらに、自分が「意外にできた」と思ってるその成果を「おそろしい失敗」って受け止める人もいるだろう。そういう人からすると「意外にできるよ」は、おそらくとんでもなく最悪な感じの意見になり得る。攻撃を受けても困るし、口をつぐまざるを得ない。
こういう状況だから、みんなが大きな声で言える意見は、こういう計画を立てなさい、こういう場所に行きなさい、こういう相手を選びなさい、これだけお金を貯めなさい、といった、安全側に向かう情報、保険をかけさせる意見しかなくなってきてる。
そして、世間の人も、保険の掛け金を支払えないのなら、リスクを取るべきではないって思ってるし、リスクを取ることを賞賛したとしても、その後失敗したら「計画性があったらそんなことにはならないでしょう、すべて自己責任」って言われることになる。
そう考えると、なんだか不特定多数に配信されている情報、今後、面白くない方向というか人間を面白くなくす方向にしかいかない気がして憂鬱になる。たぶん賢くなっていくんだろうとは思う。でも、だいたい人間は賢くなると面白くない。アホアホパワーからしか面白いものは生まれない。
まあ、アホはともかくとして、実際問題として何にしても100%の安全や安心はあり得ないのだから、どこかでリスクを取る決断が必要で、でも、リスクを取れってことを大きな声では言えないのであれば、どこかで小さい声で伝えることはできないものかと思う。リスクを取ろうとする人に「ええやん」って。リスクを取って失敗した人に「がんばっったやん」って。
それはたぶん、不特定多数の中からパーソナライズして受け取るような情報では当然なくて、ごくパーソナルなつながりの中でだけ、本当に流通しうる情報で、なんか、少子化とかを発端としてわりと明後日の方向に思考が進んだ。