予定地

いずれなにか書きます

「二次元に行く」とかいうことに関して、ふと真剣に考えてみたんだけど、それってある意味においては、三次元世界に存在する「作者」の意向のままに幸福になったり不幸になったりするということに他ならないのではないかと思って、少しつらい感じになった。

そもそも二次元世界において登場人物に役柄を選ぶ権利はないのだろうから、おそらく私が二次元に行っても美少女ヒロインになれるとは限らなくて、単なるモブである可能性が限りなく高い。単なるモブならまだマシな感じで、もうちょっとしわ寄せを食って適当に不幸になる役だったらたまったものではない。

実際、三次元世界においても、四次元世界に「作者」が存在し、その意向のままに幸福になったり不幸になったりするという考えはあって、「運命論」とか「宗教」と言われている。普通すぎる。

ならば、三次元世界で自分が「作者」となり、自分の分身を二次元世界で思うようにふるまわせればいい、というのも考えたけども、それならば、むしろ、三次元世界で三次元の自分が思うようにふるまえれば、それが一番解決策としてスマートな感じがした。自分の作った物語を自分で生きるにしても、誰かの物語の登場人物になるにしても。

コレットが子供ほどに年下の男と恋をしたのは「シェリ」を書いた後だし、マゾッホは「毛皮のヴィーナス」を書いたあと、愛人に主人公と同じ名を名乗らせ毛皮を着せて自らを虐待させた。その愛人は小説の結末と同じように他に男を作って逃げたという。そういうことは意外にあるものだと思う。