予定地

いずれなにか書きます

10/28

「一番いいときに死にたい」というような感覚、今はあんまり持ってない。
かつては、こんなことを考えたことがあった。

本当言うと、あのときラーメン屋の看板に頭ぶつけて死ねばよかったと思うぐらい、気分が良かった。

確か、当時は、本当に人生に絶望している時期で、自力でどこにも抜け出すことができないと思っていて、そんな中で幸せと感じられる瞬間があれば、たとえ酩酊した上での幻のような幸せであっても、それを最後に死んでもいいと思ってたんだった。まったく不健康だ。

今だって、将来に希望を持っているわけでもなく、わりとカジュアルに死にたいとは思ってるし、言ってみりゃ、いつでも波打ち際をふらふら歩いてるような感じだ。正直なところ、いつ波にさらわれても仕方がないと思ってる。

でも、それはそれとして、空が綺麗だったりいいにおいの花が咲いてるみたいなことで結構安易に気分は高揚するし、たぶん明日あたり食べごろになる甘酢につけた秋刀魚を楽しみにしていたりもする。

結局のとこ、今を、幸せと定義づけることも、不幸せだと決めることも自分じゃできないなあと思う。なんかそういう定義づけに傲慢さを感じる。

日々、自分の都合や他人の思いや、いろんな力学が作用して自分のかかわるイベントが発生していて、まあ、それは淡々と消化していく。なんかそういう大きな仕組みに組み込まれているという感覚がある。うれしい悲しいの感情はあるにせよ、幸せでも不幸でもない。

心配しなくても、たぶん、誰にだって、一番いいときに終わりは訪れるんじゃないでしょうかねえ。波打ち際を歩いてたら、ある日、必要なときに波は来て、いやでも沖に運んでいくんだろうと思うよ。

自ら死ぬことを選ぶために使うコストは高すぎる。ほっときゃ自動的に人間は死ぬ。もう半分ぐらいがんばったしな。

追記

ところで、小さい子供つれてるとかなりの高確率で「今が一番かわいい時期ですね」みたいなこと言われるんだけど、あれ、ほんといやだった。これからずっと下降線かよ!って。
実際の感想としては、子供に関しては、いちばんかわいい時期も何もなく、ただそこに大切な存在としている、そんだけです。言葉や行動それぞれがかわいくてキュンとしたりはするけど、存在としてかわいいもかわいくないもないと思う。もっとかけがえない感じのものだ。