予定地

いずれなにか書きます

7/12

はてブで盛り上がってたこれについて少し考えた。

インターネットが普及して、それまでの社会と何が変わったかというと個人のそれぞれの考えや思いが可視化しやすくなったこと。ブログでは、まだ、ある程度まとまった文章を構成する必要があり、それがハードルにもなってたけど、twitterブコメなら本当に感想レベルで見苦しいとか不愉快とかいう感情を表明できて、で、不快だと思われた行為をやらかした当事者はそれを読み「ああ、他人に迷惑をかけてたのね、私」とか反省したりするわけで。
でも、あえていうと、そんなこと気にしても仕方ないと思う。自分だって子供育ててきたことはあるけども、それでも、疲れてるときに電車の中で子供がギャースカ騒いでて微笑ましく見守れるほど人間できてない。内心では殺意を覚えるレベルであったりもする。でも、私がおなかのなかで思ってることなんて誰にも関係のないことですよね。騒ぐタイプの子供を持った親はがんばってそこを乗り切るしかないし、ひそかに不快感を持ってる他人の私を気にしてもどうしようもないことなのであって。
よく言われる「他人に迷惑をかけるな」「他人を不快にさせるな」みたいな教えは、心がけとしてはもっておくべきではあるけど、完全にそうやって生きるのなんて無理なんですよ。広大な土地があって自給自足できるような場所ならまだしも、都市部では誰かが誰かを不快にすることを避けることは無理。さらにネット世界では、物理的接触がなくたって、自分が軽く表明した意見が他人を不快にしたり迷惑だったりするし。
twitterで子持ちをdisるのも自由だけど、たぶん同じ強度で「じゃあ、あんたは子供のころ誰にも迷惑かけなかったのか、年をとった後だれの世話にもならないのか」とも思われてる。んで、そう思われて本当にその人が平気なら他人の意見を気にしていない時点でその人の勝ちなんじゃないかな。
結論、子供をもったら負けというよか、どういう生き方を選ぼうと、見知らぬ他人の不快感を気にしたほうが負け、なんじゃないかしら。もちろん、今、その場にいる人が不快に思ってるならば当事者が努力して少しでも不快感を軽減することは可能かもしれないし、そうすべきだと思うんだけど、その場を共有してもいない他人が、その状況についてどう思うかとか、ほんとまったく意味のないシミュレーションだし、気にしても仕方ないことなのよね。