2019年の年筮
2018年はなかなか良い卦を得て、大変だったけど前進の年って感じではあった。
2019年は
離 ― ― 巽 ― ― 艮 ――― 艮 ――― 震 ――― 巽 ― ― 雷風恒 の不変爻
現状維持、大きく変化させずに初心を忘れない感じ
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自分の身に起きた不幸はわりと「面白かった」って笑えるんだけれども、他人の不幸はそうはいかない
トーンポリシングとか
被害を訴える弱者に対して、振る舞い方や言葉遣いが悪いとか、外野が文句つけるのはよくない。それを「トーンポリシング」だという。
だが、しかし、自分が弱者だとして、何かを批判したり、是正を求めたりするときに、無駄に相手側を傷つけたり貶めたりするのは、戦略としてうまくないと思っている。口汚く罵ることで社会が変わることは何もない。一時のガス抜きと引き換えに自分の社会が狭くなるだけだ。
言葉や態度は刃物みたいなもので、刃を丸めて切れなくさせるような要求ははねのけて良い。しかし、精密に病巣を取り除くためにメスを研ぐような努力すら「トーンポリシング」と呼んでないがしろにするのは、弱者を弱者に、被害者を被害者に留めることになる部分もあるように思う。
ポリコレ棒とか
男女の社員が業務上仲良くしていると「付き合ってんの?」みたいなネタ言われて不快、みたいなの世間でよく聞くけど、うちの会社の場合、異性間ではそれをやらない嗜みはあれど、同性間ではそういうネタはカジュアルに言われがちで、昔は「BL企業」とか言って笑ってた。
でも、会社も大きくなりダイバーシティが進みLGBT当事者も少しずつ増えてきた。
この間、Slackでそういうトーンの雑談があったとき「同性だからといってそういうのはいいんですかね」って極めて穏やかに問題提起がなされ、「たしかにそうだね、やめようね」みたいな感じで、やはり極めて和やかに話は終わった。一瞬、ダメな意味がピンとわからなかった人もいたけど、穏やかな流れの中で理解が進んでよかった。
これが、知らない同士のやりとりだったら、最初の棒はもっと勢いよく振り下ろされていたかもしれないし、言われた側としても、まったくピンときてないうちから棒で攻撃されるのは痛い。
今回の会話の流れは、たしかに「ポリコレ棒」の一種かもしれない、でも、それによってそこにいた人たちの価値観は柔らかくなった。棒が悪いわけではない。力加減とか用途次第なんだろうし、今回のは、肩たたき棒みたいな感じだった。
捨てて後悔しているもの
断捨離ブームで「捨てて後悔するようなものはほとんどない」って言うけど、私にはある。
離婚する時、当時住んでたのがものすごい荒れた汚部屋で(元夫に溜め込み癖があり古新聞や古雑誌、パンフレットなどいらないと思うようなものを捨てると激怒されたので、掃除をする気が一切なくなってそうなった)そこから、自分の物だけを確保して逃げるように出ていったんだけど、年末に引っ越して、春に、お雛様を飾ろうと思ったらなかった。押入れの奥にしまってて、新しい家には持ってこなかったのだった。
前の家にあった膨大なゴミは、退室の期日を決めて、その時点で残っているものはすべて廃品回収業者に持っていってもらうという、なかば特殊清掃のような乱暴な方法で方を付けた。数十万円かかったと思う。その時にお雛様も処分されてしまったのだ。
子どものころ、友達の家には段飾りのお雛様があって羨ましかった。家にあるのはお内裏様とお雛様だけの親王飾りだったので、精緻なお道具類が羨ましかったのだ。でも、量産品のお雛様はなんだか顔が怖いし、つるんとしてケバケバしいああいうのは嫌だという親の趣味もわかった。
しかし、落とし所が見つかった。ある年のひな祭りの日に、ガラスケースに入った3段飾りの座り雛が家にきた。手作りの木目込み人形で、お人形の顔はどれもふっくら優しく、着物の色味も王朝風の上品なものだった。とても気に入って、毎年出して床の間に飾るのが楽しみだった。
しかし、結婚してからは、そういう汚部屋生活で飾る場所なんてなかったから箱にしまいっぱなしだった。別居して、娘と2人で3LDKのマンションに引っ越し、ようやく何かを飾れそうな場所ができたから、ずっと飾れなかったお雛様を飾ろうと思ったのだ。
その時に受けたショックって、今こうやって書いてても胸の奥から何か苦いものが上がってくるような悲しさで、どうしてあの時押入れの奥まできちんと確認をしなかったのかって今でも思う。
娘はちゃんとお雛様を見たことないということもあって「別に気にしなくていいよ」って言ってくれるし、母も「大変な中、きちんと生活を立て直したんだからまた買えばええやんか」って言ってくれる。それでも、やっぱり後悔している。
何かの代償だったと思えばそれで良いのだろうけれども、どうしても心の奥に引っかかっている。