予定地

いずれなにか書きます

初めてインターネットを使い始めた時(私の場合、ニフティのフォーラムとかメーリングリストとかネットニュースとかから)人間が思考をアウトプットして、それをフックとして人が繋がること、その繋がる相手の住んでいる場所や社会的な立ち位置とは関係なく、純粋に思考する人間として繋がること、にものすごい開放感を覚えたので、それを広げたいって思いが強かった。
別にそこまで難しいことじゃなくてもよくて、たとえばもっと生活に関すること、料理のレシピとか、このコスメ良かったとか、そういうクチコミに近い情報だって、テキストエリアを前にすれば書けることが、普通の友達を前にして言葉では言いづらい、言うと面倒臭い人ぽくなったり、反論しづらい、というのはあると思ってたので、むしろ自分のやりたいのはそっちかなと思った。
で、すでにそこから10年以上経って、インターネットで情報を交換するのは普通になったけど、普通になった分、むしろ、あまり自由には思考をアウトプットしづらくなってきたというのはみんな感じてると思う。今だってフェイスブックで誰かの意見に反論したくなってもコメント欄では反論しづらくて、黙ってフォロー外したりするだけになってる。それは快適だけど世界は広がらないなーって思う。なんかそういうのがあって自分自身は元気なくなってる気がする。議論はストレス溜まる、でも、議論しないとコミュニティは死んでいく。
あと、個人的な志向として正直に言うと、サービスを世界に広めたいとかあんまり思わなくて、、むしろ、ワンブロック内に住む人間でもお互い知らないことがいっぱいあるし、知らない人がいっぱいいるし、そういう人たちと出会うことができないだろうか?と思う。移動と輸送のコストはとても高いから、それをゼロに近づけるため近くに住む、近くにあるものでまかなうというアプローチはないだろうか?
だから、日本語という言語とそれにまつわる文化をもっと自由にしたい、自分はそう思ってるんじゃないかなって最近感じる。不自由さとか気まずさみたいなの、すごいローカルな感覚であまり普遍的ではなさそう。グローバルなサービスは、そういうの、どんどん踏み荒らしていく。シリコンバレーに行った人が「こちらはいつもいい天気でみんなポジティブ」って言うけど、高温多湿で冬は寒くて皮肉の効いた応酬が飛び交って殺伐としてるのも文化だし、毎日晴れてたら咲かない花だってある。そういう花を枯らしてポジティブに笑ってるのどうなのよって気がする。あれ、そしたら自由にしたいというわけじゃなくて、不自由で気まずい中でも自由に振る舞えるように生態系を整備したいという話なのかもしれない。
なんか、こういう感じでグローバル化に関してわりと批判的な感覚持ってるの、最終的には企業から落ちこぼれそうな気がしてならない。そういう意味で将来が不安。