予定地

いずれなにか書きます

「子どもの写真を祖父母と共有するサービス」みたいなのを「良いもの」「世の中を良くするもの」として受け入れられてない感じがする。どうも「必要悪」ぐらいの気持ちで納得してる。
それは、自分が子どものころから、自分の肖像がコンテンツとして流通するのが限りなく嫌だと思っていたからだと思う。10歳ぐらいの時にはもうそれがとても嫌だった。
まだ、乳児のうちの写真であれば撮られてる側の本人の自我もほぼないから、単なる記号みたいなものとして割り切れるけど、ある程度、物心ついてからの自分の肖像権って本来は自分に帰属するものなのに、親が好き勝手に取り扱うのが本当に嫌で、その時の自分の気持ちとは違うストーリーを勝手に添えて良く知らない人に見せびらかされるのが本当に許せなくて、なにより、それを嫌だという気持ちが理解してもらえないのも辛かった。大人になってからは、一応周囲の人はこの写真を公開していいか聞いてくれるから、子どもの時ほど写真を撮られたりそれを公開されることが嫌じゃなくなったし、むしろ嬉しいんだけれども。(撮られたいです!)
ただ、世間一般の情勢を見ても、たぶん親の立場からすると、子どもがそんなに嫌がるのはどうしても理解できないと思う。というか、そこまで嫌がる子どもも本当はそんなにいないんだろうし、自分が特殊なのだとは思う。でも、やっぱり、子どもの自我、自意識、そういうものが蔑ろにされてるような気がしてならない。考え過ぎかも知れないけど。

いきなり話が飛躍するんだけど、子どもを養育するのとか、老人を介護するのとか、あるいはホームレスを支援するような、弱者を守る現場では、完全に善意で良心的になされていたとしても、突き詰めると相手の権利を制限することがしばしばある。で、どこで線を引くかが本当に難しい。

援助者が、弱っている相手の権利を自分のものにして、好き勝手にコントロールすれば、非常に効率よく善意をふるうことができるし、それを正しいとする人もいる。そうしないとどうしようもない現場もある。でも、キレイ事かもしれないけど、やっぱり相手の尊厳を認めて、自由意志を尊重することがとても大事だということを忘れてはいけないように思う。

おそらく、子どもの肖像権の問題も同じ根っこだと自分の中では感じていて、だからどうしても気になってしまうのかも。