予定地

いずれなにか書きます

宗教に関して嫌悪感とか恐怖感みたいの持つ人も多いし、実際、邪悪なのも多いんだけど、頭から拒絶している人については、それはそれでよくない感じがする。よくないというか、なんか幼さを感じる。

世の中には、人間が自分の人生のサイズで考えていてはわからない大きすぎる問題がある。生と死の意味とか、善悪とは、それによって生じる因果とは、偶然はどうして偏るのか。そういう論理的に証明できないややこしい問題をを自分で1から考えて1から悩むの、心に対する負荷がばかにならない。悩んだことがある人ならわかると思うけど。とことん悩み切るほど強靭な人はたいていいない。

でも、思考停止してしまうと、目先の利害と本能に基づいた動物的な生き方にならざるを得ない。人が社会で生きるからには「死んだら終わり」というわけにはあんまりいかない部分があるので、それだと困る。

宗教って、たいてい、突き詰めて悩んだ開祖、そしてその弟子が連綿と考え抜いた結果として、そういうややこしい問題に対する仮説を提示している。で、その仮説を集合体で共有することによって、人間は人間一人以上のサイズで物事を考えることができるようになる。いわば思考フレームワークみたいなもの。儀式だの戒律だのご利益だのお布施だのは本質的なものではない。あくまで二次的なもので、どっちかというと共同体を結びつけ維持するために行われていると考えている。だから、そんなものにはさほど興味ない。

怪しい新宗教の多くは、仮説にほころびがあったり伝統的なのからパクったりして適当に作った上で、共同体を維持する仕組みだけを強固に作ってる感じがする。でも、伝統宗教というのは、それなりの時の流れに耐える強度を持った仮説だし、運用を間違えなければ非常に有用なものだと思っている。

そのへん、そもそも考えることを放棄した人には宗教を馬鹿にする資格ないし、馬鹿にするの、非常に不用意なのではとも思う。

さらに、もっとヤバいのは、そういう人は、明確な生きる指針を持たないが故に、むしろ他の手段で共同体を維持するための何かに飲み込まれる危険性がある。人間は共同体から離れては生きていけないから。たとえばお金であったり、目先の快楽であったり。生きる目的として、自分が理屈で演算できる範囲の、小さいサイズのものを提示されたとき、アホみたいについていってしまったりしないか不穏な感じがする。マルチとか、秒速とか、札束風呂でモテまくりとかああいうやつ。そっちのほうがよっぽどアホ臭いと思う。だまされないぞと頑張る時点でだまされている、みたいな話になってる。

たぶん、そのへんで普通にカジュアルな感じで無宗教って言ってる人、正確には「仏教と神道と自然崇拝がなんとなく混ざった日本特有の精神風土に生きています」という感じがするから、なんかそれを認めたほうが健全なんじゃないのって気持ち。まんまんちゃん、あん。的なやつ。