予定地

いずれなにか書きます

訃報を聞くと、人の人生はソーセージみたいだなって思うことがある。
生まれた瞬間が最初のケーシングの結び目で、ひき肉がどんどん詰まっていき、最後は、またケーシングを結んでおしまいだ。
どんなに中身を詰めても、結び目を作るまで、ソーセージにはならない。亡くなった人に会えなくなるのは悲しいけれど、一人一人の人生というものを考えると、死なないと終わらないのだから、めでたいというには語弊があるものの、ほっとしたような気持ちになる。
赤ちゃんのうちに亡くなってしまったあの子の細くて小さいソーセージ、大往生したおばあちゃんの長いソーセージ、どれもたぶん味が違って、それぞれに美味しいものなのだと思う。