予定地

いずれなにか書きます

だいたい「表現の自由」という言葉を持ちだして守らないといけないようなものは、別の側から見ると、わいせつだったり残酷だったり悪口だったり営業妨害だったり無意味で不愉快で低俗だったりするもので、良識のある人からば「けしからん、かわいそう、消してしまえ、あるべきではない」と思われるものだ。

で、そう思うのがまともなモラルや感性や人情の持ち主だとされるのが世の中の常識なのだけれども、それでもなお、表現しないといけない何かが表現者の中にあるとすれば、そこは汲んで自由を守りたいという気持ちが、私には強くある。でもそういう気持ちすら「モラルがない、人情がない、自分がそう言われたら、お前の娘がそういう目にあったらどうするのだ」と責められる世の中で、表現の自由を守るのは本当に難しい。

特に、一私企業である事業者にとって、表現の自由を守る義務があるわけではない*1。もし、がんばって守ったとしても、別に褒められない。むしろ怒られる。正直、それを大切に守ってもまったく得しない。

それでも自由を守ろうって気持ち、それは、もうインターネットとか社会とか人類に対する信義みたいなもので、実際、歴史の古い通信事業者とか法曹の人たちはその信義の上に仕組みを作ってきた。でも、新し目の事業者はそんなこと正直どうでもいいように見える。今後はもうそういう信義を持ち続けるの難しいんじゃないだろうか。必要でもなければお金の種にもならないのだもの。結構、絶望的な気持ちになる。

自由って失われてしまってから気付くものだと思う。そして、自由がある次の場所に、いつのまにかみんな向かうんだろうともまた思う。そう考えるとそこまで危機感もって絶望的になることもないのかも知れない。単にメディアの変遷というだけの話かも知れない。監視されない場所、ログの残らない場所はどこにでもあるものだし。

*1:憲法で縛られるのは国であって私企業は関係ない