予定地

いずれなにか書きます

3月はパオロ・コエーリョの小説をいくつか読んで「別に内面の心の動きを外面の象徴でわざわざ表現する必要ないのになー」と思ったけど、心の動きだけを延々と書いても小説として成立しないので、なかなか難しいものだなと思った。
ただ、日記体のように「ブログ体」として小説を書くとするならば、主人公の心の動きだけを延々と書き続けることもできるし、無理に心の動きに沿うような会話を作る必要もないかもしれない。外で起こっていることは何一つ直接的に書かず、主人公の心の動きだけが奇妙にいきいきと書かれているような、そういう表現もできるかも知れない。
実際「11分間」は、地の文のところが全部うそ臭いのに、マリーアの日記の部分だけリアリティが感じられたように思う。意図的にそういうふうに書いてあるのかどうかはわからないけど。

11分間 (角川文庫)

11分間 (角川文庫)