予定地

いずれなにか書きます

場所にとらわれない働き方と家族を持つ生き方の話

場所にとらわれない働き方と家族を持つ生き方が相容れない問題について、この間からずっと考えてる。

普通は家族がいたらなかなか好き勝手に移動はできないものだ。でも、「大草原の小さな家」みたいに新天地を開拓したり、植民地で一旗揚げようとする人たちがどうして家族団結できたかというと、もともと生まれた場所に漂う閉塞感があって、そして新天地への夢やあこがれを家族で共有できたからなのだろうと思う。あと一緒に移動する仲間もいただろうし。

だから、たぶん今、ダンナが「シリコンバレーで働きたい」っていったらついていくヨメはいるだろう。シリコンバレーに行ったという体験は自分の人生にも「ハク」がつく。子供も「グローバルな人材」に育ってくれるかも知れないし、現地には日本人嫁のコミュニティもあってそれなりに生活できるだろうし。なにより夢を追いかけるのはかっこいいじゃないですか。湿っぽい日本ではイノベーションは生まれない!ポジティブな社会でグローバルサービスを生み出そう!なんてな。

自分は仕事をしないできない家族が仕事をする戸主について別天地に移動することを納得できるかどうかは、戸主が本当に自分が働くべき場所、働きたい場所であるかどうかより、おそらく、世間から見ても「夢の場所、約束の地」として認知されているかどうかのほうが大きいんじゃないだろうか。ただ、本当はそんな場所に対する夢や希望の多くは作られたプロバガンダなのだし、戸主がブルーオーシャンを求めて世間から注目されていない場所に移ろうとした途端に関係が悪化するということもある。

もっとぶっちゃけると戸主の稼ぎの問題もある。たとえばダンナが数億稼ぐスポーツ選手ならヨメは海外移籍についていくだろう。

たぶん、ちょっと前に話題になった「500万円で場所にとらわれない働きかたと、2000万円で場所にしばられる働きかた」という軸はおかしくて、500万円で場所にとらわれない働きかたで家族はもたない生きかたと、2000万円で場所に囚われて家族を持つ生きかたと、数億円で場所にとらわれず家族ももてる生きかたがある、というのが正解なのでは。

しかし、戸主にものすごい人間的魅力があって「どこに行くとしてもこの人の賭けに乗りたい!」と家族が心から思うならば、年収も何も関係なく本当の意味で場所にとらわれない働きかたができるだろう。そして、そこまで魅力的な人間ならば、ほんとにどこにいっても成功するんじゃないかと思う。

あと一つの可能性として、家族が事業共同体としても成立している場合は場所を移動するにあたって家族全員が「自分の仕事」という要素は捨てなくて済む。これがまさに本来の意味でのノマド的な暮らしだと思う。