予定地

いずれなにか書きます

旅とインターネット

「インターネットは時間の空費だからやめよう、減らそう」という決意は世間から何かとても感心して受け止められる。インターネットどっぷりの人ですら「それができるなんてすごい」という感想をもったりする。なのに「私は旅なんてもうしません」「今年は旅に行くのは減らそうと思います」とかいう人は少ないし、たぶんそんな決意をしたら変人扱いされる。「旅は人間を成長させますよ、いいものですよ」とか反論する人だってたくさんいそうだ。

でも、実際には、旅だって同じぐらいの時間の空費(さらに化石燃料の空費)だし、想像力も何もない人間が大した用もなく遠くにいったって、結局は用意されたアクティビティを消化するだけで誰かがすでにどこかで言ったような感想しか残らない。単に遠くに移動したという達成感と、写真やテレビでみたとおりの何かがあったということを確認するだけ、何か面白いことがあったかのような幻想に囚われてるだけ。挙句のはてに家に帰って来て「やっぱり家が一番ね」となり、下手したら事故や事件で怖い思いをしたりもする。なのに何かリアルっぽい体験であるがゆえに優遇されているのか、歴史の重みなのか、それともこの間の鴨川での仮説のように、旅に関わる産業が存在するゆえに権力っぽいところから何かのバイヤスがかけられてるのかも知れないけれども。何か世間的には高尚なことであるように扱われている。

かつて、自分は旅が好きではなくて、できることなら移動なんてしないで一生暮らしたいと思ってたし、もっというと、まるで旅の資金を貯めるためのように仕事をして、旅行のために何日も会社を休むような人間を軽蔑していた。自分の大事にすべき日常から逃げているだけだろうと思っていた。

だけど、インターネットで遠いところに住む人と友達になってその人と会いたくなったり、その人の住んでいるところに行ってみたくなったり、あるいは遠い町で開かれる面白い催し物の情報を知ったりということが増えて、結果的に年に2-3回は遠出するようになった。

だから、この2つは自分の認識の中でわりと同じ位置にある。すなわち両方とも「自分と遠くにあるものをつなぐ手段」だと思っている。で、遠くのものにウエイトをおきすぎると自分の足元が危うくなるのは旅もインターネットも同じ事だということだった。

すべての人が旅をする必要がないのと同様に、インターネットが必要ない人もいると思う。でも、冒頭に挙げたようなインターネットへの後ろめたさのような感情はそろそろなくなってもいいんじゃないだろうか。インターネットは日常的な人々とのやりとりにも便利につかえるし、その気になればどんなに遠くの人とでもつながれる射程の広さがある分、旅より無害で、旅より自由だ。旅が人を成長させるなら、インターネットも人を成長させ得ると信じている。自分がそうだったし。