予定地

いずれなにか書きます

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誰しも心のなかに5歳ぐらいの子どもがいる。たいていその上に大人の理屈とか常識とかを盛りつけて綺麗にしてるけど、もっと心の深い底の部分では5歳の感情が反応してる。

たとえば、とても期待していたものがでてこなかったとき、大人はその場で泣いて暴れたりはしないけれど、心の中の5歳の子どもは泣く。自分の言い分をちゃんと聞いてくれなかったりぴしゃりと否定されると5歳の子どもはしょんぼりする。大人は理屈が通ってれば納得するけれど、でもそれは、大人なのだから、納得しないといけないから、納得したフリをしているだけだ。

ユーザーサポートなんかはまさにそうなんだけど、そうじゃない人でも、言葉を使って何か交渉したり説明するときには、大人を相手に大人の言葉を使いながら相手の中の5歳の子どもをどこかでケアするという離れ業が必要となる。相手が心のそこから腑に落ちて納得するという時に、そこにあるのは理屈だけではない。

さて、自分も、わけもなく不機嫌になったり、寂しくなったりすることはあって、それは5歳の領域だから本当に仕方がないと思う。特に、自分の5歳のころを思い返すと、かなり扱いづらい子どもで、すぐかんしゃく起こすし、人と話し方がわからないし、本棚の間に座って一日変な本読んでたり、一人で遠くの公園まで遊びに行ったり、そういう子どもだった。だから、自分でも扱いに困る部分があるのだ。

結果として、まともな大人として生活するためには安心して5歳になれる=一人になれる場所と時間がどうしても必要なので、誰かとずっと長い間すごさないといけないのは困る。私的スペースがない共同生活というのはできそうな気がしないし、家族と一緒に暮らすのが苦手というのも結局そのへんにあると思う。