予定地

いずれなにか書きます

6/13

毎日、たくさんの人のブログ記事を読んでいる。そのなかには何かの神が宿ってると感じられるものがあって、それは、大抵の場合、その書き手が、何かをものすごく渇望していて、手に入れたい近づきたい、あるいは誰かに対してその渇望の正体を知ってもらいたい・・・そういうとてつもない力が文章にぶつけられているときで、結局、そこに宿っているのは神ではなく、その人そのものなのだろうとも思う。
数年間、そういうブログを読み続けると、その渇望していたものを手に入れたり、あるいはメディアに見出されて、著書が出版されたり、そうでなくてもブロゴスフィアの有名人となり理解者が増え、結果的にその人の欲求が満たされたりする事例を多く見聞きする。
長年、その人の渇望を自分のことのように心で受け止めてきただけに、それはとても嬉しいことである。しかし、残念なことに、渇望していたものを手に入れると、たいていの場合、その人のブログは神が宿らなくなる。著書やイベントの案内、まったりとした日常の報告、あるいはその人をしたって集まってくる人に対して受けのよさそうな前にも見たような言葉が並ぶようになり、もう渇望は感じられない。ただ、世間が認めたその人という存在を演じているようなブログ。
人はいつまでも何かを渇望しつづけるわけにもいかないのだろうと思う。手に入れるかあきらめるか。その後は失速するだけだ。だからこそ、私はむやみに何かを渇望してる人が好きだし、見ていてひりひりするようなものをそこから感じたいと思うのだ。それは、バンドの一枚目のアルバムだけが持ち得るあの勢いにも似ていると思う。