予定地

いずれなにか書きます

2/3

私はけっこうひとをねたんだりするほうで、それは「あー心がせまいなーはずかしいなー」と自分でも思うけれども、他人の幸せを無防備に祝福することが難しい。

そういう気落ちがどこから発生するかを考えてみた。まず、自分が満たされてない部分がある。で、それを得ている人がうらやましい、ということなんだというのはわかる。

でも、自分が口に出して言えるような願望に関して、ちゃんと成功してる人に対しては、尊敬の念はわいてもねたみ心というのは発生しない。どうも、あまり世間に向けて大きい声で言えない部分に関してピクッときてしまうみたい。要は、自分がストレートに「うらやましい!わたしもああなりたい!」というのを、どっかでブロックして押さえ込んでる分、ストレートな願望じゃなくてねたみという形になってしまうんだろうなあ、と思った。

ためしに、ねたみっぽい気持ちがわいたときに、それを願望という形に直してみる練習をしてみた。やはり、とてもここではかけないような願望だった。なんか納得できた。

結局そういうことなのである。「新月の日に宇宙に向けてお願いごとを書きましょう、でも、自分のエゴのお願いはダメですよ」みたいなスピリチュアル系ポジティブアファメーションでは取りこぼす欲望願望が必ずあって、それをなかったことにしてしまうと、たぶんどっかでゆがみが出る。

少なくとも私みたいな感じでねたみ心を持ってしまうタイプの人は、たぶんエゴ丸出しの見もふたもない欲望をいったんどっかで吐き出したほうが健康的だと思った。自覚してその上でどうするかはまた別の問題だけど。