予定地

いずれなにか書きます

5/31

今日は天気がいい。
もうあまり後ろを見ないことにした。いや、まあつい見ちゃうけど、ぐちゃぐちゃに腐って変わり果てた姿なんて見ても幸せにはなれないし、ご飯が食べられなくなるだけだ。「見るなのタブー」を守ることができた勇者に待ちうけるものが何であったかどんな神話も教えてくれないけれども、とにかくこの洞窟を抜けよう。
実際、天気はいいし風は涼しいし、ベランダのデンドロビウムも咲いている。茎が花の重さに耐えきれず、はいつくばるように咲いているのが洋ランらしくなくて笑える。幸せはどこにあるかわからないけれども、幸福感がある場所は確実に私の心の中なので、そのへんを愛でていこうと思った。
後ろを振り返ったついでに、昔話をしてみる。
2007年〜2008年にさしかかるころまでのtwitterには魔法があった。タイムラインにいる人は、何となく名前を知ってる知り合いがほとんどで、誰かが見つけてくる見知らぬ人も、良い意味で頭おかしい人たちばかりだった。この人面白いから一度会いたいよ、飲もうよってなると、それなりの距離があっても何かのついでに遊びに行ったりして顔見知りの飲み仲間になれた。タイムラインには気のきいたエンジニアやクリエイターや頭のおかしい人がいっぱいいて、タイムラインに誰かが「今日飲みにいくよ」「今飲んでる」って書けば、普通にそこに混ざって朝までバカ話をして飲めたし、ustが流行ったらみんなで意味なく自宅や職場の光景をストリーミングして遊んだりしてた。
そして2010年、その人たちはどうしているかというと、まあ当たり障りのないことを書いている。私もくだらない小ネタを書いている。タイムラインは流れている。でも、いつのまにか、だれに向けてでもなく「飲みに行きたい」と書いて適当に予定の合う人たちが集うようなことはなくなったし、飲み会の連絡はIRCとかSkypeとかDMとかで届くようになった。
いろいろな要因がある。結婚したり子供ができたり昇進・独立、はたまた就職したりと自由になる時間が減った人もここ3年で増えた。それから、2010年のtwitterには彼らの上司や顧客やユーザーが参入してきて、無防備に遊んでいるということを書きにくくなったというのも大きい。要はめんどくさくなった。飲みのメンツは固定化していき「何となく知ってはいるけどちゃんと話したことなかった」という人との出会いが少なくなっていく。結果、ゆるい村社会的なつながりというのが崩壊してしまった。
今、twitterはすごい、いろんな人と友達になれる、有名な人の本音が読める、とみんなが感激しているけれども、実は、2007年ごろのゆるやかなつながりは薄れてしまっている。かつては「人間がコンテンツ」だった。人が集まるという状況だけを楽しんでいた。しかし、今は、企画を考えて人を集めるか、面白い企画に乗っかって後からそれを語る人ばっかりだ。Web上のイベントに何千人もの人が集まるのは寿ぐべきことだけども、それは私の求めてるものとちょっと違う気がする。企画力に長けた誰かが開催する集まりにみんなが乗っかっているという構図はこれまでのマスメディアの時代と変わらなくて、ただ、プレイヤーとオーディエンスの感覚が限りなく近くなっただけのことだから。
さらに、別の話。破滅*ラウンジに先日行った時に感じたこと。
私は、アニメや同人ゲームのキャラに興味がない。ゲーム音楽に興味がない。ロリエロマンガにも興味がない。なので、そのあたりの文化を消費することが共通言語となっているコミュニティにどっぷりと入れない。世代差もあるとは思うけども志向性が違う。一貫して生身の人間とその関係性にしか興味がないんだと思う。それでも、自分の知ってる人たちがそこにいるならば、それがハブになって居場所はあった。でも、そういうのは、いったん人間関係がほころびたり、大量に知らない人が流入すると、とたんに接点が失われてしまう。爆音の中でコミュニケーションが取れない状況だともうだめだ。会場の片隅に座ってそんなことを考えたりして他。私は見世物になりたくないし見世物の観客にもなりたくないんだ。
ことさらに約束をしなくてもそこにいけば顔見知りの誰かがいて、だらりと話をしながらお酒を飲める場所、そういうものを時代の変化と自分の不手際によって全部失ったので、新しく探しに行かなければならなくなってしまったんだなあと痛感した。
昔、京都にいたとき、河原でアコーディオンを弾いてたら、ギターを持った男の子がやってきて、仲良くなって、そのうち一緒のお店で演奏する仲間になったってことがあった。2007-8年のtwitterはそういう河原だった。2008-9年のギークハウスもおそらく。もう一度そういう場所を探しに行きたい。そう思ってる。私のアコーディオンが届くのは届く人だけでいいんだし。



これは違和感を書き出しただけなので、それを楽しめる人は、それはそれでいいと思う。