性善説とか
(承前:所属する企業とかそれ以外の特定の企業には関係ない個人の意見です)
よく、何かのサービスリリースして、悪い人対策に不備があったりすると「性善説で運用してる」みたいな言われ方するけど、どうもそれに強く違和感がある。
20年前ならいざしらず、現代では、サービス作る時に大抵の人は「いずれは悪いことが発生する」とどっかで思うだろうし、ある程度の年月サービスを運営してご飯食べてるんだったらなおさら具体的な事例はいくらでも思い浮かぶものだし。*1
だから、サービスが、そういうのを想定していないかのように見える場合、たぶん、大抵の場合、それよりもなによりも、今、このタイミングでリリースするほうが大事だから、事前にそういう機能をつけずにリリースしているのだと思う。
別に「利用者がみんないい人である」とかそういう信念に基づいているわけではなくて、悪い人によって誰かが嫌な目に合うリスクと、サービスを適切なタイミングで出し損なうリスクでは、後者のほうが定量的に想定しやすいというだけの話なのだと思う。単に「前者のほうのリスクが無視できない状態になってから対策をとっても間に合う」という判断でしかない。*2
個人的にはそういう判断に無条件に同意したくないし、トイレもないままにショッピングセンターをオープンさせるような風潮は覆していきたいと思ってるんだけども、なんとなくこの「性善説」って言葉が、その判断が妥当かどうかという議論をぼやけさせてる感じがある。「ユーザーさんはみんないい人ですよね★」という顔をすることで逃げが打てる感じがある。
そもそも、性善説ってことばの意味自体「人間は無垢な赤ちゃんとして善良に生まれてくるのだから、たとえ途中でいろいろあって悪い人になったとしても適切に教え諭し改心させることができる」という説なのであって、決して世の中がマシュマロとマカロンでできてるという意味ではないんだけれども。
(ついでに言うと、性悪説というのも、別に「人を見たら泥棒と思え」ということではなくて「人間は赤ちゃんのままだと何もわからず悪いことをしてしまったりするものであり善き人間として生きるには適切に教え諭すことが必要である」という意味で、実際にやることはあんまり変わらなかったりする。)