予定地

いずれなにか書きます

家族の愛とかの話

意外に思われるかも知れないけど、私の18歳ぐらいまでの生育歴を振り返ると、4世代同居の大家族の末っ子でわりとヌクヌク愛されて育ってるといえなくもないのだ。あらびっくり。

ただ、無防備に愛されて育ってきた人特有の「あの感じ」がしないであろう理由はいろいろあって、まず、なぜか近所の人がしょっちゅう家に来てリアル発言小町的人生相談が繰り広げられていたことに加え、行きがかり上なぜかDV被害者の母子をかくまったり、なぜか地方在住の不登校児を預かったり、小学校のときの友達がしゃれにならない虐待受けてたりと、人の出入りがあれこれあって、さまざまな家のさまざまな事情を嫌でも見せられてきたので、自分の家が当たり前という意識があまりなかったというのがある。表面的にうまくいってる家でも、実は誰かが我慢してたり、家族のだれかとだれかが仲が悪かったりとかいうのは普通にあるんだなあと子どものころから肌で感じていた。

たぶん、他人の状況に対する想像力って、単に、本を読んだりして一人で想像して身に付くものではなく、実際に違う環境に身を置く人の話を聞くことを積み重ね、自分の考えとの差分を測ることで学習していくんじゃないかなと思う。

さらに、自分の家も父が亡くなってからはいろいろあったし、結婚したらもっといろいろあったので、その結果として、いまではすっかりヌクヌク感が抜けて殺伐としているわけで。

何が言いたいかというと、家族の愛というのは、状況によってもとても移ろいやすいものであり、それが当たり前というものでもないということ。そして、子どもが「無条件に愛されて育った」と思えるかどうかは、親の資質とか、子どもの性格とかそういうこととはほとんど関係なく、相当に外的な要因で左右されるものであること。

さらに「無条件に愛されて育った」あるいは「愛されずに育った」という自己認識は、あるきっかけで根底から覆されることもある。子どものころ愛されていたと思ったことが、単に打算や束縛や共依存であったということに中年すぎてから気づいてこじれる事例はあるし、逆に、子どものころ半ば虐待のような育てられ方をしても、成長するにつれ親も一人の人間であり親なりに自分を愛していたという理解に至ったという事例もあるので、そのへんは死ぬまでどうなるかわからない。年とってから人格が変わっちゃう人もいるし、財産や姻戚が絡むともっと事態はシビアになるし。

家族ってきっと自然に過ごしてうまくいくもんじゃなくて、社会の最小単位である以上誰かがどこかで奥歯食いしばってる部分があって成立しているように思う。そうやって、親なりきょうだいなり誰かが奥歯を食いしばって産み出された家族の愛というものが、たまたま自分にとって受け取りやすい形であったとすれば感謝して受け取るのは素敵なことだけど、家族の中で不幸にも奥歯を食いしばるのが自分であったとしても、それは別に引け目に思ったり負い目を感じるようなものではないし、単にめぐり合わせの問題でしかない。

そんなことに気づいたのも、可愛がってくれた祖父母がなくなり、その顛末を残された母から聞いたりしてのことだし、母は母なりに祖父母に対してのわだかまりがそこでようやく消化できたようなことを言ってたわけで、ほんと死ぬまで何がどうなるかはわからない。

もしかしたら、家族の愛の意味が本当にわかるのは、家族のために奥歯食いしばってからじゃないかなあ。そんなふうにも思う。たぶん二十歳ぐらいまでのその人の性格とか資質とかは家庭環境に左右されるかもしれないけれど、そこからはまだまだ流動的であるし、環境の違う人と深く友達づきあいするだけでも考え方は立体的になるし。あまり「自分はこうだ」と決め込まないほうがいいかもなと思いますん。

さて、あなたは家族という共同体を守るためにつらくとも奥歯を食いしばれると、胸を張って言えますか?